PTAという団体でも、法律と同様、私たち親権者を「保護者」と命名しています。

ここで、親と保護者の違いについて、第一部で論じたことを思い出してみてください。「親」は自分の経験や責任のもと、家庭のルールで子どもたちを育てる役割を担っており、「保護者」は社会に通用するルールに則って、集団に適応できる子どもに育てていく役割を担っている、という分類をしました。

PTAにおいて私たちが「保護者」と命名されているということは、ここでは家庭のルールではなく、社会に適用するルールで思考することを求められている、ということを確認しておきたいと思います。

社会のルールで子どもを育てるということは、自己の価値観と異なる点が出てくることも、当然のこととしてあります。そのときこそ、「人との関わり」の中でどのように子育てを行っていくかということを考えなければならないのです。自分の子ども中心だったものの味方を、他の子どもの立場から見てみる、教職員の立場から、他の保護者の立場から見てみる。別の角度から見てみるだけでも、きっと「人との関わり」への重要度は高まっていくでしょう。

この高まりによって、社会に通用するルールを模索しなければならない責任を感じることができるようになる。そういう保護者でPTAが構成されるようになれば、社会的に通用する子どもたちを育成する力を持った教育支援団体へと、PTAを改革できるはずです。もちろん、時間と労力が必要です。簡単なことではないかもしれません。

しかし、PTAだからこそできる、PTAだからこそしなければならないことであるという意識を持って、学ぶことを始めたいと考えます。

学校は、社会の中では教育業界に属します。私たちがふだん生活している社会とは少なからず環境が異なります。そのことを改めて認識することから始めましょう。

しかし、私たち保護者が学ばなければならない学習は、教職員と同レベルの専門的教養を求める学習ではありません。教育社会から発信された情報や知識をより正確に吸収するための学習です。「なぜ、~しなければならないのか」という疑問も、上澄みだけをすくっていては、発展性のない、単なる批判や評価で終わってしまいます。

教職員から、このような言葉をよく耳にしました。

「最近の保護者は、言葉が通じなくなっている」

教職員に伝える能力がないのか、保護者に理解する能力がないのか……疑問はありますが、学校教育法の読み取り方のところで述べたように、事実であることは間違いないと言えます。

例えば、伝達された連絡事項や、学校からのプリントの内容を読み取ることができない。もちろん、日本語ですから、書いてあることは読めるわけですが、知った内容から、自分が何をしたらよいかというところに結びついていかないのです。「これぐらいは分かるでしょ!」という考えは通用しないという前提で、学校は保護者対応を行なっているような状況なのです。

子どもたちだけではなく、保護者にも、学校が(あるいは行政が)一から十まで手厚くしてきた反動が、今、「考える力を失った」現象として現われているとも言えるでしょう。また、ことは学校だけの責任ではなく、PTAにも大いにその責任はあると感じています。「理解と協力」を求めるあまり、保護者に尽くすことばかりに熱心で、保護者自身の自主性や思考能力を減退させてしまいました。これは、ここ数年のことではありません。「お隣さん」意識の衰退、核家族化、集落の崩壊……高度成長に、人の心が楽することを求めてきた弊害は、こんなところにも出てしまっているのです。