保護者として、子どもを通しての学校との関わりは、私たちの生活において大きな割合を占めています。自分の意思だけで選べる関係ばかりではないので、煩わしさを感じたり、悩みを抱えたりしながら、関わりを続けなければならない場合もあります。また、仕事や趣味、ボランティア活動など、自分自身が優先したい時間とのバランスを取って関わる努力をしていることでしょう。しかし、学校とどのように関わればよいのかを考える機会は少ないのではないでしょうか。まずは、保護者であることを意識するところから始めてみたいと思います。

 

子どもたちは観ている

子どもたちは、私たち大人をよく観ています。特に、「初めて」のことやものとの出合いは、比較するものがないので、その吸収力には素晴らしいものがあります。さらに、良くも悪くも、印象的なことはしっかりとした記憶として残っていきます。

私たち大人は、自分の子どもだけではなく、たくさんの子どもたちに観られているということを認識しておきましょう。

理想的なことを言えば、「見本」となる大人であれば、これに勝るものはないと言いたいところです。しかし、世の中、すべての大人が同じ行動や言動を取るわけではありませんから、子どもたちに「十人十色」の大人を見せることになります。ですから、子どもたちが見た「十人十色」の中から「正しきこと」を教え、その責任の取り方を見せていかなければなりません。

例えば、子どもたちには、学校にお菓子を持って行ってはいけないというルールがあります。見つかれば、叱られます。それなのに、教員や保護者が学校で飴を口にするところや、貰ったり上げたりしているのを見れば、子どもたちは矛盾を感じるでしょう。あるいは、道路で、渡ってはいけないところを横断したり、広がって歩いたりすると、子どもたちは注意されます。しかし、私たち大人はどうでしょう。よほどのことが無い限り、叱られることはありませんし、簡単にルールを破ったり、自己中心的な行動をとることもあります。大人にとっては些細なことでも、子どもたちの眼は観ているのです。

「~してはいけない」という禁止一辺倒の叱り方だけでは、子どもたちは納得できません。その状況に応じて、子どもたちが理解できるように、丁寧に説明し、私たち大人が責任を取っていくことが必要です。

 

■ウワサ話に翻弄されない

「火のないところに煙は立たない」ということわざがありますが、煙は立っていても、発火元を確認できないまま流れ広がっていくウワサ話が多い気がしています。

これは、個人情報保護とは逆行するように、情報が無責任に扱われているからだと言えます。また、携帯メールの利便性の代償として生まれた無責任さでもあると思います。チャットや掲示板、裏サイトは小中高生のあいだだけの問題ではなく、保護者のあいだでも問題化しています。情報は、受け取った側がその情報をどう扱うかによって「善」にもなり「悪」にもなることを忘れず、冷静に読み取ることを心がけたいと思います。

 

学校を知ることから、すべてが始まる

学校がたくさんの問題を抱えているのは事実です。極端な話、何をとっても、改革・改善が必要な状況と言えるでしょう。しかし、その改革・改善が容易ではない苦境に立たされていると思います。、だからといって、保護者の立場であれば、このままにしておくわけにはいきません。

ただし、話し合いや相談の方法を間違えると、上手くいくはずのことも、失敗に終わってしまいます。

学校と保護者の目的はいずれも、「子どもたちのために」なのです。共通の目的を持っているお互いの立場を理解することの大切さを、心に留めておきましょう。

そして、保護者は、学校に対して怒りをぶつけたり、抗議をしたりするのではなく、説明を求め続ける「忍耐」を惜しんではならないと考えます。学校を知ることが、すべての始まりであって、改善の始点はここにしかありません。

 

保護者としての責任を肝に銘ずる

学校で問題が発生すると、「もっと学校に(先生)にしっかりしてもらわないと……」という発言をよく耳にします。もっともだと思うこともあります。ただ、学校だけに押し付けても、それで一件落着ということにはなりません。

子どもたちを育ててきたのは、親、つまり保護者です。学校という集団生活の場に、私たちはさまざまな人格を持った子どもたちを、毎日送り出しているわけです。学校は、私たちが思っている以上に多種多様な人格の坩堝(るつぼ)です。さまざまな環境で育った一人ひとりの人格によって形成されているところです。

私たち保護者には、子どもたち一人ひとりを、学校を形成する人格として子どもを成長させる責任があります。「なんとかしてください!」と声を高くする前に、保護者としての責任を果たすために、力を注いでいきましょう。

責任を逃れようとする姿ほど滑稽に映るものはなく、子どもにとって悲しいものはありません。

 

 

「親は保護者、子は児童・生徒なり」の精神

 

学校において、親は「保護者」と呼称されると述べましたが、子は小学校では「児童」、中学校・高等学校では「生徒」と総称され、やはり個人個人ではなく、大勢の総称として使われています。したがって、親も子も、自分はこの大勢の中の一人であることを、自覚したいと思います。

しかし、私たちは、大勢の中から自分をすくい出し、自己の存在を常に確認しています。確認ができると、自分の位置を探し、所属する集合体の中での自分を確立するのです。

例えば、学校から「保護者」向けに、「必ず、朝食を摂らせてください」と注意があったとします。そのとき、私たちはまず、自分が、子どもに朝食を摂らせているグループと、摂らせていないグループの、どちらに属しているかを確認するはずです。そして、摂らせているグループに属していると確認した場合、その注意は他人事となります。逆に、摂らせていないグループだと確認した場合は、自分が注意事項の対象であるため、私事となります。

さて、問題は、私事となった後の対応です。子どもが朝食を摂れていないのは、なぜか。自分の怠慢によるのか、あるいは、子ども自身、または外的障害によるのか、理由はさまざまでしょうが、私たちは反省、自己保身、反発、攻撃、無視などの反応を示します。

つまり、私たちが着目しなければならないのは、自分の立場を位置づけ、自分に関わる問題を突きつけられた後の心の動きです。私たちは、自分の立場を確認することについては、冷静に思考を歩ませています。しかし、いったん問題が自分に関わることと認識すると、一保護者として注意を聞いていたにもかかわらず、親の顔が突出し始めるのです。

社会常識と問題の意味を理解したうえで自分自身の行動を見つめ、子どもへの対応を考ようとする姿勢であれば、素直に「ごめんなさい」「明日から、子どもが朝食を摂れるように努力したい」などと反省し、取り組まなければならない課題として考えることができるので、常識的であると判断されます。

しかし、自分の責任として理解できないと、親の自我と、利己的な感覚によって、多くの場合、その問題から逃れようとし始めます。そうなると、子どものことより、自己保身に走っていく傾向が強くなります。こちらが問題に対し真摯な態度で臨んでいないと捉えられてしまえば、学校から相手にはされなくなるのは当然のことと言えるでしょう。

ですから、子供たちが健全に成長し、学校生活を有意義に送るためには、私たちが「保護者」であることを自覚し、決して利己的ではない行動や言動にとっていくことが、非常に重要なことであると考えるのです。

そして、「保護者」としての意識を深くすることができれば、学校とともに、もっと子どもたちの成長を助けることができるようになるはずです。