保護者と呼ばれる私たちは、改めて「保護者とは何か」と説明を受けることがなくても、保護者の持つ意味を感覚と常識で理解しています。だからこそ、保護者としての責任を果たそうと、とりあえず保護者らしく振る舞うことが身についているのです。

ところが、必ずしも根拠や確信をもって、その行為・行動・言動・判断ができているわけではないと思います。

ですから、追及されたり、異論を唱えられたりしたときには、自己弁護や防衛に走ってしまうこともあります。動揺し、自分自身のコントロールがうまくいかなくなると、本来伝えるべきことの本筋から大きくはずれていってしまい、結果的に、周りからは自分本位とみなされるだけ、ということにもなりかねません。子どものことを一番に思い、保護者の責任を果たそうとしてのことであったはずにもかかわらず、意図しない結果となってしまっては、こんなに後悔することはないと思います。

そこで、先に述べたように、まず、子どもとの関係においては、自身の価値観で子育てをする「親」としての立場ではなく、社会的責任を果たさなければならない「保護者」である自覚を持つことが必要不可欠です。

そして、子ども自身が、「守られている」「自分の親は責任を果たそうとしてくれている」ということを感じられる、そんな関係を作り出すことが肝心です。また、子どもが、自分が親の手のひらの上で生きているということを自覚し、感謝する気持ちを持てるように導いていくことも必要です。

自分のために親が保護者として社会的責任を果たそうとしている姿は、子どもにとって、目指すべき目標にもなるはすです。

では、学校との関係においては、どうでしょう。

教員と理解し合い、子どもの成長を助けることができるというのが、何よりの理想です。ただし、これが一番難しく、本書で取り上げたいテーマの一つでもあります。

私たち保護者にとっての関心は、自分の子どもだけになりがちですが、教員にとっては、「わが子」も大勢の児童・生徒の中の一人でしかなく、自分と同様の意味での特別な存在ではないわけです。教員は、公平性を最優先しなければならない立場です(それができない教員もおり、それはそれで問題視しなければならないのですが、ここでは、教員は公平であるものと仮定して話を進めます)。

「うちの子がかわいそうで……」「うちの子は悪くないのに……」

この「うちの子……」という言葉は、公平性を遠くへ追いやり、わが子の弁護を意識するときに出てしまう傾向があるので、この言葉が重なってくると、教員とのあいだに隔たりが生まれ、対立的な立場になる可能性を高めていってしまいます。すると、公平性を求める教員に有利になっていくのは当たり前のことで、結果は容易に予測できるでしょう。

何か問題が起きたとき、私たち保護者は、わが子を弁護するだけではなく、成長につなげていくことを考えなければなりません。子どもにとって大切なのは、それは、「悪かった」と反省することだけではなく、「では、どうしたらよいのか」を知ること。課題を見つけ、子ども自身が、教員と私たちに対する信頼を損なうことなく、「それならできる」という自信を持てるようにすることなのです。

そのために、子どもにとって何よりの支援となるのが、社会的通念を持った保護者らしい親の力なのです。実際、読者の皆さんも、そうした存在であろうと思っておられることでしょう。

ところが、子どもたちは年齢を重ねるとともに、教員や保護者の支援に対して、「ありがたくない」「迷惑」というような態度を取ることも増えていきます。このような子どものサインは、間違いなく、その子の成長を伝えるものです。

ありがたくない支援になってしまう原因は、子どもの寸分の成長が保護者に認識できていないことにあると思います。子どもは、進級するときにだけ成長するわけではなく、時間の経過に比例して、いつも成長し続けているのです。

しかし、子どもの成長というのは、常に前進するばかりではありません。私たちには後退しているとしか思えないこともあります。そうしたことも、学習や経験といった新たな関わりの中から、子ども自身が自分に取り込むことができたからこその表現である、と前向きに考えたいものです。そして、私たちは、それを成長の過程と捉え、保護者として子どもたちが必要とする手助けとなる日々を過ごすことが大切です。

そのためには、私たち保護者が自分を高め、成長し続ける子どもの伴走者として支援できる努力を続けていきましょう。