学校において、親は「保護者」と呼称されると述べましたが、子は小学校では「児童」、中学校・高等学校では「生徒」と総称され、やはり個人個人ではなく、大勢の総称として使われています。したがって、親も子も、自分はこの大勢の中の一人であることを、自覚したいと思います。

しかし、私たちは、大勢の中から自分をすくい出し、自己の存在を常に確認しています。確認ができると、自分の位置を探し、所属する集合体の中での自分を確立するのです。

例えば、学校から「保護者」向けに、「必ず、朝食を摂らせてください」と注意があったとします。そのとき、私たちはまず、自分が、子どもに朝食を摂らせているグループと、摂らせていないグループの、どちらに属しているかを確認するはずです。そして、摂らせているグループに属していると確認した場合、その注意は他人事となります。逆に、摂らせていないグループだと確認した場合は、自分が注意事項の対象であるため、私事となります。

さて、問題は、私事となった後の対応です。子どもが朝食を摂れていないのは、なぜか。自分の怠慢によるのか、あるいは、子ども自身、または外的障害によるのか、理由はさまざまでしょうが、私たちは反省、自己保身、反発、攻撃、無視などの反応を示します。

つまり、私たちが着目しなければならないのは、自分の立場を位置づけ、自分に関わる問題を突きつけられた後の心の動きです。私たちは、自分の立場を確認することについては、冷静に思考を歩ませています。しかし、いったん問題が自分に関わることと認識すると、一保護者として注意を聞いていたにもかかわらず、親の顔が突出し始めるのです。

社会常識と問題の意味を理解したうえで自分自身の行動を見つめ、子どもへの対応を考ようとする姿勢であれば、素直に「ごめんなさい」「明日から、子どもが朝食を摂れるように努力したい」などと反省し、取り組まなければならない課題として考えることができるので、常識的であると判断されます。

しかし、自分の責任として理解できないと、親の自我と、利己的な感覚によって、多くの場合、その問題から逃れようとし始めます。そうなると、子どものことより、自己保身に走っていく傾向が強くなります。こちらが問題に対し真摯な態度で臨んでいないと捉えられてしまえば、学校から相手にはされなくなるのは当然のことと言えるでしょう。

ですから、子供たちが健全に成長し、学校生活を有意義に送るためには、私たちが「保護者」であることを自覚し、決して利己的ではない行動や言動にとっていくことが、非常に重要なことであると考えるのです。

そして、「保護者」としての意識を深くすることができれば、学校とともに、もっと子どもたちの成長を助けることができるようになるはずです。