今さら、保護者とは何かと質問するほど、野暮なこともないかもしれません。私自身、子どもが生まれ、気がついたら保護者となっていたわけで、立ち止まって、自分に与えられた保護者という役割は何か、などということを考えたことは、一度もありませんでした。

しかし、PTA活動に関わるなかで、改めて、親ではなく保護者と呼ばれるには、それなりの意味があるのではないか、という疑問が生まれました。

そもそも、日本の法律では、親(親権者)=保護者という理解を求めています。確かに、現実には、親と保護者が同一である場合が大半ではないかと思います。

まず、ここで、法律では「保護者」についてどのように定義されているかを見ておきましょう。

 

○児童福祉法(昭和二二年-法律第一六四号:第六条全文)

「この法律で、保護者とは、親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護する者をいう」

――児童福祉法では、「児童」とは、「満十八歳に満たない者」をいう(児童福祉法第四条)。

○学校教育法(昭和二二年-法律第二六号:第十六条文頭)

「保護者(子に対して親権を行う者(親権を行う者のないときは、未成年後見人)をいう。以下同じ。)は……」

○少年法(昭和二三年-法律第一六八号:第二条第二項全文)

「この法律で、『保護者』とは、少年に対して法律上監護教育の義務ある者及び少年を現に監護する者をいう」

――少年法では、「少年」とは、「二十歳に満たない者」をいう(少年法第二条第一項)。なお、「法律上監護教育の義務ある者」とは、親権を行う者(親権者)、未成年後見人、親権代行者、児童福祉施設の長などが該当するといわれている。

 

このように、私たちは子を持ち、親となった時点で、法律的に「保護者」と名づけられている立場であることが分かります。

いずれであっても、かなりの重荷と責任を背負っている立場であることが理解できますし、務め上げることは並大抵のことではないという気がします。

日々の家庭生活の中では、自分自身を親として認識しているのであって、保護者という認識は薄いはずです。それは、大半の子どもが、親の責任で管理・修復できる範囲で日常を送っているので、法律的責任を問われる場面に遭遇することが稀だからではないでしょうか。

また、多くの場合は、個ではなく大勢を指し示す総称として「保護者」という呼称が使われているのであって、責任を追及される個別の場面になると、「お父さん、お母さん、ご両親、親」と呼ばれるからです。

しかし、なぜ、私が、「親」「保護者」の定義にこだわるかというと、私たちは「親」と「保護者」の立場を無意識のうちに使い分けているということに、PTA活動を行うなかで気がついたからです。

そこで、私は、「親」と「保護者」を、次のように定義してみました。

 

○親とは……

法律上、定められている監護に則ってであるが、自身の主観が許され、自身が理解する社会的通念をもって、子どもを養い育てる者。子どもが成長していく過程において、生活と安全の面倒を見て扶養し、その能力や質を伸ばすように教え導いていく。また、自身の価値観で、子どもが一人前になれるように仕込む。

 

○保護者とは……

社会的通念を基準として、法律上定める監護を実施する者。監護とは、監督し保護するということ。すなわち、法律上の定めに則り、子どもを見守り続け、危険や破壊、困難などが及ばないようにする。身体的・精神的機能や、生活に必要な能力などが低下あるいは未熟な者などについては、その環境や他者による害悪、また本人が自分を害する行為に対して、安全の確保、環境の調整、必要な援助の付与など、その者のためになるように取り計らう。

 

例えば、子どもに夢中で冷静さを欠いている場合は、親としての行為、行動、言動が強くなりがちです。当事者意識が薄く、どちらかといえば評価者で、常識的判断を受け入れるゆとりがある場合は、保護者としての行為、行動、言動になります。他人の子どもに対する場合を思い浮かべてみてください。誰もが、保護者らしく接しようとしているでしょう。

親というのは、昔から、「親馬鹿」「目の中に入れても痛くない」「子は鎹(かすがい)」などという言葉があるように、自分の子どもをすべての中心に据えて物事を考えてしまう傾向があります。子どもの辛い姿や、傷ついている姿は見たくないものです。また、どんな状況であっても、わが子を信じたい気持ちが、真実を見つめる勇気を奪ってしまい、子どもを擁護するために必要以上の力を注いでしまうこともあるものです。

だからと言って、私は、親意識を否定するつもりはまったくありません。「親だからこそ」とも言われるように、誰にもかなわない底力が、親にはあります。この底力こそ、子どもとの関係に必要な何よりの力であることを忘れてはならないと思っています。

ただ、学校は集団力と協力意識を必要とするところなので、社会的通念に則った保護者の立場を期待します。また、私たちも、学校では、大勢(多く)の保護者と比較されるので、「社会が認める立場」を保とうとする意識が働き、保護者になろうとします。大半の親は、大勢の中の一人である保護者として、ふだんは皆と同じ方向を向いて、集団と関わろうとしているのです。

学校という集団においては、親ではなく、学校は親に「保護者の立場を担ってほしい」、親は「保護者の立場を保ちたい」という意向を持っていると言えるでしょう。

これは、私たちが「保護者」と呼ばれている理由として、社会的に定義づけられていることに加え、実社会において保護者の存在が必要なものであると認めているからではないかと考えます。